この本に出逢えて良かった2016

2016年に読んだ本の中から、「この本に出逢えて良かった」と思えたものをピックアップしました。

 

若林正恭『完全版 社会人大学人見知り学部卒業見込』

オードリー若林正恭がダ・ヴィンチに連載しているエッセイをまとめたもの。漫才の他にラジオパーソナリティ、番組MCとしても辣腕を奮ってきた著者であるが、近年はエッセイストとしての人気も絶好調らしい。完全版では表紙が本人の写真からイラストに変更されたことからも本作への意気込みが感じられる。

滅多に本にお金を使わない僕が衝動買い(まあクオカード使ったんだけど)するくらい面白かったのでみなさんも是非。

 

 いつも明るくて前向きな友達が心底羨ましかった。毎日楽しくなかったから、そんなふうになりたいと願った。
 そんな自分を変えたくて読んだ本の中に「幸せだから笑うのではない、笑っているから幸せになるのだ」と書いてあった。
 翌日、常に笑っている状態をキープしていたら「さっきからなんで受け口なの?」と友達に聞かれた。
 毎日寝る前に一日の出来事で幸せだったことを書いていけば、毎日がハッピーになると書いてあったので実践した。だが、四日続けて「はなまるうどんがおいしかった」の一行で逆に寂しくなったので止めた。
「自分を変える本」を読んだ後は、意識しているから三日ぐらいはその形になるが、日常に晒され続けるとすぐ元の自分の形に戻る。
 性格とは形状記憶合金のようなもので元々の形は変わらない。それに気付いたことが「自分を変える」本を読んだぼくの収穫だった。

 

完全版 社会人大学人見知り学部 卒業見込 (角川文庫)

完全版 社会人大学人見知り学部 卒業見込 (角川文庫)

 

 

 

西加奈子『サラバ!』

著者初の長編小説にして第152回直木賞受賞作品。キーワードは家族、友情、生き方かな。図書館で借りるのに半年以上待つほどの人気ぶりで驚いた。

読んだ後「こんな素的な物語に生まれてきてくれてありがとう」って言いたくなったのはこの本が初めて。

 

てぃらみすぅー!

 

「私が、私を連れてきたのよ。今まで私が信じてきたものは、私がいたから信じたの。
 分かる? 歩。
 私の中に、それはあるの。『神様』という言葉は乱暴だし、言い当てていない。でも私の中に、それはいるのよ。私が、私である限り。」
 僕はうつむいた。姉を直視することが出来なかった。そうしていても尚、姉の気配だけは感じられた。恐ろしく濃厚な気配だけは、感じることが出来た。
「私が信じるものは、私が決めるわ。」
 僕の足元を、アリが這っていた。黒いその体は、踏むとすぐ潰れるだろうと思った。
「だからね、歩。」
 僕は蟻を、じっと見ていた。
「あなたも、信じるものを見つけなさい。あなただけが信じられるものを。他の誰かと比べてはだめ。もちろん私とも、家族とも、友達ともよ。あなたはあなたなの。あなたは、あなたでしかないのよ。」
 僕は、姉をそこに残し、歩き始めた。姉はひるまなかった。姉は、そこにいた。かつて自分が信じ、やがて鮮やかに捨て去ったものの前で、じっと立っていた。
「あなたが信じるものを、誰かに決めさせてはいけないわ。」

 

サラバ! 上

サラバ! 上

 
サラバ! 下

サラバ! 下

 

 

あと著者の西さんについてなんだけど、この方トークが面白い。オードリーのオールナイトニッポンに出演したときの若林との絡みとかいっぺん聞いてみると良いよ。

 

  

 

西尾維新『愚物語』

そだちフィアスコ、するがボーンヘッド、つきひアンドゥの三話構成。若干シリアス要素多め。物語シリーズはこれより先の『撫物語』まで読んだのだけど、より印象に残ったのはこの作品だった。

っていうのも『そだちフィアスコ』で右頬を打たれたような衝撃を受けて。

老倉育の語りがあまりに鬱々しくて自己懲罰的だから、これは西尾ファンでも人を選ぶだろうなって感じ。下手したら死ぬ。

二、三話は割とおちゃらけあるから一話が苦手だったら読み飛ばせばいいと思うよ。

 

 だけど、ここまで来ると、引っ込み思案な私でも、引っ込みがつかなくなってしまう。振り上げたこぶしの下ろしどころが見つからない。
 否、こんな状況が続けば、私は自分の頭に、自分のこぶしを振り下ろしてしまうだろう――自虐と自罰と自壊と自滅。
 繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し。
 どこまでいっても自分自身。
 そしてすべてがどうでもよくなってしまう――本当はやり直せることでも、どこか一部が駄目になってしまえば、神経質に放棄してしまう。
 ちょっとでも汚れたら、服を捨ててしまうような潔癖性――笑わせる。私くらい汚れた奴が、何をもって潔癖だ。

 

僕は老倉育のようなヤバヤバメンヘラ女子に対して同情や憐憫を抱いたりしない。何度彼女が人との交流に失敗しても、精神的な意味での自傷行為に走っても、何も思わない。

もし老倉育が身近にいたら?

あんまこっちから踏み込んで話聞いたり慰めたりするのも地雷踏みそうな気がするしどう接したらいいのか正直わからん。

でも、とりあえずふつうに話せる程度の友達になれたらきっと嬉しい。

 

〜〜〜以下妄想〜〜〜

彼女と仲良くなって以来、僕は時折海に向かって

「老倉アアァーーーッ!」

と叫んだり、 

 

富士山頂から

「惚れてまうやろおおおおおッ!!!」

と咆哮したりするようになった。

 

道歩く彼女に忍び寄り

「もっと触らせろもっと抱きつかせろもっと舐めさせろおおおおおッ!!!」

 といきなり後ろからハグしたこともあった。

 

紆余曲折を経た僕たちはある日夕暮れの丘の上で向かい合い、僕の方から

 「I LOVE YOU」と思いを告白する

 

二人は同棲をはじめた。あるとき喧嘩して彼女が家を飛び出してしまう。僕はしばらく部屋の中をぐるぐる歩き回るも、彼女のことが心配になり跡を追う。雨でずぶ濡れになりながら行方を探し、スクランブル交差点の中央にその姿を見つける。そこで互いの胸の内をぶつけあったあと、二人は壊れるほどに抱きしめ合うのだ。

〜〜〜以上妄想〜〜〜

 

・・・・・・。

 

いやまあ、すでに? すでに好きっていうかあれよ。

老倉ラブなんですけど、何か?

 

僕クラスの老倉ラバー(略して『老倉バー』・・・・・・どんな嗜好のアイスだ。)になると彼女の発想のイタさ加減、自意識過剰だったり、深読みしすぎだったりが、滑稽でチャーミングに思えて仕方ない。ああギュッてしたいわぁ。

 

ってな感じで今後も老倉育の活躍に期待しています。

愚物語 (講談社BOX)

愚物語 (講談社BOX)

 

 

 

有吉佐和子『非色』

人種差別をテーマにした小説。トイアンナのぐだぐだで知った。

1967年出版の古い本で今は絶版になってるけど、できるだけたくさんの人に読んでほしい。ノーベル文学賞受賞者トニ・モリスンの、同じく黒人の人種差別を扱った『青い眼がほしい』より3年早く出版されてるってのもすごい。

 

 金持は貧乏人を軽んじ、頭のいいものは悪い人間を馬鹿にし、逼塞して暮す人は昔の系図を展げて世間の成上りを罵倒する。要領の悪い男は才子を薄っぺらだと言い、美人は不器量ものを憐れみ、インテリは学歴のないものを軽蔑する。人間は誰でも自分よりなんらかの形で以下のものを設定し、それによって自分をより優れていると思いたいのではないか。それでなければ落着かない、それでなければ生きて行けないのではないか。

 

差別って絶対悪だけど人々の意識に根付くもんだから撲滅しにくいんだろうな。もちろん時代が進むに連れ、レイシストの割合は減ってきているんだろうけど、日本にも特に嫌韓・嫌中の差別主義者は未だ一定数いらっしゃるわけで。

実際中学高校で同級生がさらりと差別発言するのを耳にしたときはすごいショックだった。僕には「差別主義者は軽蔑すべきクソ野郎」という偏見があるから。

言う方の僕もどれくらい公平な人間か知ったもんじゃないけどさ、みんな今一度自分の持ってる偏見を自覚した方がいいんじゃない? それがはじめの一歩だと思う。

ブログ『quipped』のこの記事も参考になった。→個人的な偏見

 

非色 (1967年) (角川文庫)

非色 (1967年) (角川文庫)

 

 

 

Toni Morrison『青い眼がほしい』

ノーベル文学賞受賞作家トニ・モリスンのデビュー作。大恐慌時代のアメリカ中西部を舞台に、白人の容姿に憧れを抱く黒人の少女ピコーラの生活を描く。詩情と悲嘆と狂気とが美しく調和して、とてもおいしかった。

 

 きれいな眼。きれいな青い眼。大きくてきれいな青い眼。走れ、ジップ、走れ。ジップが走ります。アリスが走ります。アリスは青い眼をしています。ジェリーは青い眼をしています。ジェリーが走ります。アリスが走ります。彼らは青い眼をして走ります。四つの青い眼。四つのきれいな青い眼。青空の色をした眼。ミセス・フォレストの青いブラウスの色をした青っぽい眼。青い朝顔色の眼。アリスとジェリーの青いお話の本の色をした眼。
 
 青い眼にしてくださいと、毎晩かならず彼女は祈った。熱心に一年間祈った。一年たって少し落胆はしたが、望みを捨てたわけではなかった。こんなにもすばらしいことが起こるには、長い、長い時間がかかるものだから。
 こういうふうにして、奇蹟だけが自分を救ってくれるという強い確信に縛られていたので、彼女は決して自分の美しさを知ろうとはしなかった。彼女はただ、見えるものだけを、つまり、ほかの人々の眼だけを見て暮らした。

 

青い眼がほしい (ハヤカワepi文庫)

青い眼がほしい (ハヤカワepi文庫)

 

 

 

寺山修司 編著『人生処方詩集』

人生処方詩集と言えばエーリッヒ・ケストナーが有名だが、これは寺山修司によるもの。「わかれた人がにくかったら」「人生がさびしすぎたら」など様々な心情に合わせて薬としての詩を処方する。各章のはじめに寺山自身による著述があり、もっぱら僕はそれを目当てに読んでいた。

 

×月×日

 山田の葉書が来た。
「ポール・ヴィラネーの『一九二五年生まれ』を読んだ。
 一九二五年生まれというんだから、ヴィラネーは僕達より十年も年上だ。
 しかし、ヴィラネーはジイドの『地の糧』を批判している。『地の糧』の自由は、ジイドを狭隘な生活から解放はしたが、また一つの劃一主義に身をまかせただけだと言うのだ。
 それに引きかえて、戦争は自分で何一つ手を出さなくても、さまざまの社会的桎梏から僕を解き放ってくれたと言うのだよ。
 だが、心がけから言ったらヴィラネーはジイドの比じゃない。ヴィラネーは、ただ生きのびたというだけのことでしかないんだ。
 戦争は、まさに大きな劃一主義だということをどうして気づかないのだろう」
 私はこの山田の手紙を読みながら、山田は実感ということを無視しているな、と思った。なるほど、山田の言うことは正しくて、戦争は大きな劃一主義だろう。
 だが、戦争には『地の糧』にはないような実感の世界がある。この実感の手ごたえへの羨望は、一年以上も寝てみるとよくわかるのだ。
 
 そして、私は次第に病状が快方へ向いはじめると共に、ブッキッシュな生活から遠ざかろうと思いはじめた。
 まさに「ナタナエルよ、書を捨てよ。町へ出よう」
 という心境が私のものになったのだ。

 

人生処方詩集

人生処方詩集

 

 

 

Jim Shepard著 小竹由美子訳『14歳のX計画』

アメリカで起きたコロンバイン高校銃乱射事件を基につくられたフィクション小説。主人公エドウィンの視点で思春期の日常を描く。淡々とした文体が読んでいて心地良い。

エドウィンとフレイクのやりとりで自分の中学時代を思い出した。

思春期の中高生ってむき出しの局部みたいにデリケートな存在で、暇だったり、友達とイタズラしたり、腹が捩れるほど笑ったり、異性を意識したり、力の強いやつにいじめられたりしながら少しずつ大人へと成長していくわけで。とにかく不安定なんだよね、この頃って。そりゃあ憎いアイツの顔向けて弾ぶっ放したくなるときだってある。

問題なのは銃社会ではそうした欲求が現実に叶っちゃうってこと。治安のためには銃規制強化した方がいいのは明らかなんだけど、まあ既得権益層が猛烈に反対するから難しいんだろうね。知らんけど。

シリアスなテーマを扱ってる割に笑えるところも結構あるから読んでみて。

思春期を抜け出せていない大人は共感のしすぎに要注意だ!

 

 「じゅうぶん気をつけなきゃな」とぼくは言う。「このごろじゃあ、いろんな方法でだれがやったかつきとめられるんだ。DNAとかなんかも使ってさ」
 「DNA」とフレイク。とうとうとてつもなくバカなことをぬかしたな、みたいな口調だ。
 「なんだよ。使うかもしれないだろ」
 「こういうふうにしてみろ」とフレイクは言って、両手を自分の口にあてる。
 ぼくは言われたとおりにする。
 フレイクは両手をはなす。「そうやってろ」とフレイク。

 

 前にすわっている九年生が、せっせと書いていたページをバインダーからちぎると、こっちへよこす。受け取って見ると、びっくり。そこには「クソッタレ、クソッタレ、クソッタレ、
クソッタレ、クソッタレ、クソッタレ、クソッタレ、クソッタレ、クソッタレ、クソッタレ、クソッタレ、クソッタレ、クソッタレ、クソッタレ、クソッタレ」といちばん下まで書いてある。ページ全体がうめつくされている。「クソッタレ」と九年生はつぶやく。
 「私語はだめだぞ」と監督係。
 ちょっとたつと、九年生はまたつぶやく。「クソッタレ」
 「ハンラッティ君」と監督係。「私はたったいまなんと言ったかね?」
 「ぼくはなにも言ってません」とぼく。
 「席をかわってもいいですか?」九年生がたずねる。
 「他人のじゃまをしたらだめだぞ、ハンラッティ君」と監督係。
 ぼくの手にはまだ「クソッタレ」と書いた紙がある。考えてみると、これはけっこうすごい。
 九年生が手をあげる。
 「なんだね、スフィカス君?」監督係がたずねる。
 「こいつ、ぼくに悪態つくんです」と、九年生。「やめるように言ってください」
 「こいつはずっと手をズボンのなかにつっこんで、自分のアレをにぎってるんです」とぼくは言う。「ずっと片手でナニしてるんです」
 九年生は口をぽかんと開けて振り向く。
 「イス全体が動くんです」とぼく。「キモいんですけど」
 もうひとりの九年生が笑ってる。タワンダはイスにすわったまま、ぐるっとこっちへ向き直っている。例の九年生は、ぜったいに殺してやるからなって顔だ。「おまえなんかぶっ殺してやる」そいつは小声で言う。自分でもそんなことできっこないと思ってるような口調だ。
 「あ、またやってます」ぼくは監督係に言う。

 

14歳のX計画

14歳のX計画