便所で見かけたベン・ジョンソン

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僕はいつものように、その駅の男性トイレの一番奥の個室を使っていた
僕はいつものように、イヤホンから流れてくるお気に入りの曲のリズムに合わせて大便していた
 
ここまではいつも通り
誰にでもある日常の一コマだろう
だが事件もまた日常から始まることを、僕はそのあと思い知ることになる

 

そこで僕はベン・ジョンソンを見た
黒い肌
身長は思ったより高くはなく、だいぶ太っている
トイレの個室は人二人分が入れるほど広くないのにもかかわらず、彼は僕の目の前に浮遊しているかのように存在していた
「I’m Ben Johnson.」
明瞭に彼はそう言った
 
「わ、わっ・・・・・・?」
「Believe in yourself. And time will tell.」
「・・・・・・あいどんのう、わっちゅーみいん」
ベンはオイルでテカった顔面をほころばせ、消えていった
 
僕は混乱しつつトイレを出た
少し体が軽くなったように感じる
 
僕は小走りする
気付けばあっという間に連絡通路の端から端まで50mほどの距離を移動していた
その間、おそらく2、3秒
僕は速く走る能力を手に入れた
 
それ以来困るくらいツキがまわってきた
通勤に40分かかっていたのが今は小走りするだけで5分で着く
女の子の横を歩けば追い風が吹いてスカートがめくれ上がる
尻にトイレットペーパーの切れ端を挟んで走る厠紙走法を考案し、会社員ながらオリンピックで100m世界新記録を連発したのもつい最近のことだ
 
それまでの僕は何一つ誇れることなんかなかったけれど、今や僕は世界最速の男になったのだ
というか、なるしかなかった
足が言うことを聞かず、常に走り出したい欲求に駆られる
まるで陸のマグロだ
 
ベン・ジョンソンとの邂逅のエピソードはメディアで何度も取り上げられ
スポンサーとしてT◯T◯がついた
テレビの企画で本人に会うことにもなった
 
実際に顔を合わせてみると、僕らは初対面にも拘わらず、まるで長年の旧友と再会したかのような勢いで打ち解けた
「君のことは知らないが私に似たそいつは自分を信じろって言ったそうじゃないかw」通訳を通して彼が言う
「はい。時が経てばわかる、とも」
「ひょっとすると私は夢で君と会ったのかもしれないなww」
「あなたのゴーストのせいで僕は走るしかなくなったんです」
本物のベンは妙に甲高い声を上げて笑った
 
トークタイムが終わると僕ら二人は号泣しながら、かたい握手を交わしあった
 
「ミスタージョンソン、ありがとう」
「いまさらミスターなんて硬いじゃないか。ベン。ベンと呼んでくれ。こちらこそ君に会えて良かった」
「サンキューベンベン!」
「ああ、またな」
「ベンベンありがと~ッ!! 絶対また会おうね、ベンベン!」

  

ベンのお告げを授かってから僕という人間は生まれ変わった
あの日ベンが授けてくれた言葉が僕の人生を変えてくれた
 
この文を読んでくれているあなたも
誇りを感じることができず欠落を抱えて生きるあなたも
トイレの個室に入るときには思い出してほしい
あなたの傍にはいつもベンベンがいるかもしれないということを
一人孤独でどんなに辛いときもベンベンが見守ってくれているかもしれないということを
 
「Believe in yourself. Time will tell.」